Saturday, January 01, 2011

2011年正月の再開

2011年正月元旦。2009年1月のイスタンブールを最後にブログをお休みしていました。
2009年にはミラノ、カイロ、アレクザンドリア、アジマン(UAE)、ソウル、マニラ、マイアミ、ヴィルニウス、西安、パリ、ウランバートル、北京を訪問し、さらに2010年にはソウル、シドニー、コロンボ、パリ、上海、西安、サンフランシスコ、ラホール、サンフランシスコ、パリ、モスクワ、ドーハ、西安、上海ともう無数の海外出張を行いました。これも、UIA Tokyo 2011第24回世界建築会議が今年の9月25日に開会式を迎えるに先立ち、日本組織委員会広報部会長として海外への広報活動として、また、中国において僕の事務所の初契約である陜西省西郷県都市計画が進められているからだ。最近の海外出張で多くの人々と友好関係を構築することが出来た。また、2009年9月には、ウランバートルで開催されたアルカシアForum 15にてアルカシア理事会により次期会長に選出された。
アジアと日本の関係。アジアの中の日本。ガラパゴス化する日本。日本国内の建築着工数の減少。「若者たちが海外へ行かない」現象。人口減少傾向の日本。高齢化日本。鎖国気味の日本人精神。
これらのハンディを克服し、日本がまた積極的に国際社会で貢献できる国家となるよう、自分なりに貢献したいと思っている。もう日本は世界第2位ではないのです。このままで行けば、日本のいい時代は終わってしまうのです。
アルカシア(アジア建築家評議会)会長としての職務が今日から始まった。アジアの建築家を代表する役目だ。21世紀がアジアの時代ならば、僕の役目は重大だ。日本もアジアの一員。でも、日本人はそうは思っていない。僕は日本の建築家にアジア建築家としての意識を吹き込みたい!そして、アジアの建築家たちのますますの繁栄に貢献したい。

ASIA is the Key to the Prosperity of the Global Community...

Happy New Year!

Tuesday, February 23, 2010

Aga Khan財団主催の産業遺産シンポジウムに出席 




2009.01.13

イスタンブール滞在2日目。Aga Khan財団主催の産業遺産シンポジウムが始まった。シンポジウムの会場となったのは、トルコ初の私立大学Bilgi大学の新キャンパスで開催された。会場は電力博物館・美術館と再生された産業遺産の建築作品でこれも友人のHan Tummertkin氏の設計によるものである。彼は2004年にアガ・カーン建築賞を受賞しており、2010年には審査委員長を務めることになっている財団とは深い関係を持つ建築家なのだ。シンポジウムの発表者は中東の有力な研究者、大学教授、また、ハーバード大学のMohsen Mostafavi学部長、FOA主宰者のFarshid Moussavi氏、また、僕のハーバー大学院時代の先輩で昔と変わらない美貌をもつFayar Javaherian女史がイランから出席し、同国の建築事情を発表した。シンポジウムのモデレーターはヨルダン出身の重鎮Dr. Mohammad Al-Asad氏で、僕が、Al-Asadさんと同席したのは2回目だが、インテリジェンスが高いレベルの評論を述べてられていた。さて、自分の担当したセッションだが、発表者はイギリスの構造家Hanif Kara氏などで、Farshid氏がチェアーを担当した。肝心の僕の視点は産業遺産研究者というところだが、イスラム系ではない僕のコメントがどう響いたかはFarshid氏の反応をみると大体分かった。どうも僕の立場は浮いていたように感じた。なぜならば、Farshid女史からは僕のコメントに飛び抜けた反応がなかったことだ。時間も押していて、あっさりと終わってしまった。彼女とのやり取りを期待していたのに。

アガ・カーン財団もイスラム圏においてもっと産業遺産の評価、また保存と文化遺産としての保存と再生を訴えかけていくことを目的としたシンポジウムで結果として成功裏に終わったと言えよう。アガ・カーン財団は他にも数々のシンポジウムやフォーラムを世界各地で開催しているが、改めて建築界への貢献のグレードの高さを経験したイベントだった。

イスタンブールから北キプロスへ






2009.01.12

新年明けて早々、19日から一週間、イスタンブールと北キプロス共和国のレフコサへと旅立った。

この旅は、北キプロス共和国建築家協会から招聘され地元で講演を依頼されたことから始まり、途中出版を予定している産業遺産再生ワークショップの報告書について打ち合わせをすることとなっていた。この話を、ある時アガ・カーン財団建築賞事務局長に伝えると、ちょうどその頃、イスタンブールでアガ・カーン財団が主催する「イスラム圏における産業遺産」についての国際シンポジウムが開催されるので招待するから、パネリストをやってくれと誘われたので、承諾した。イスタンブールは5回目の訪問で僕の好きな都市のひとつだが、今回は北キプロスへの訪問を旅のハイライトと思っていた。といっても、世界で唯一都市が壁で分断されている20世紀ホラーの残像を感じさせる街だ。島の向こう半分は世界から認知されたギリシャ側だ。元はひとつの国であったのに、現在はギリシャ側だけがEUに加盟してしまい、残された北キプロス共和国には孤独と悲劇と彼らの希望が交錯するだろう。それを体感するのが目的だ。

羽田を経ち、関空経由でイスタンブールへ到着たのは早朝だった。打ち合わせ先がイスタンブール工科大学はタキシム広場に近いところにある。キャンパスの向かい側にアガ・カーン財団されたパネリストたちの宿舎でインターコンチネンタルホテルがある。ホテルに着くと、何人かのパネリストがロビーでチェックインを待っていた。そこに友人であるインドネシアから出席しているBuddy Sukada氏の姿も見えた。知人仲間にめぐり会えてほっとした。日本にイスラムの正しい理解を、建築を通して紹介していこうを決め、アガ・カーン建築賞を日本に紹介する企画を立てたのが2006年だが、その頃から積極的にイスラム圏の建築家や教鞭を持つ研究者たちと交流してきた。その功もあって、僕のイスラム圏のネットワークは少しずつ広がっている。今回もまた、その輪を広げるいい機会だと思っている。

チェックインに少々時間が掛ったら、ようやく部屋へ入ることができた。部屋からの景色は大学キャンパスを見下ろし、またボスポラス海峡上流も見渡せる絶景だ。

今日の予定はちょっと街歩きをすることだ。イスタンブールが初めての仲間と街へ出る。タキシム広場で早々の議論が勃発したが、収集をつけて再びイスティカル通りをそぞろ歩き。ヨーロッパとアジアの両方の匂いを漂わせるこの町は僕の肌に合っている。

夜はシンポジウムのサポーターである実業家の家で夕食会。この建物のリノベーションを担当したのは、友人でトルコを代表する建築家Han Tummertkin氏だ。建物はイスタンブールのシンボルのひとつであるガラタ塔の真向かいに位置する素晴らしい文化遺産となる建築だ。内部はHanの現代風なデザインとフランス人ランドスケープデザイナーのPatrich Blanc氏が設計した敷地裏手の壁面緑化がすばらしい融合を見せていた。Farrokh Derakhshani事務局長の他、アガ・カーン教祖の二人の子息、皆は「王女」と「王子」と呼ぶ若者たちと会話を交わす機会にも恵まれた。王子はもちろん教祖継承者である。同席だった仲間もこのよう夕食会は初めてだと言って興奮していた。思い出となる晩であった。

Monday, February 22, 2010

日本の国際建築教育システムの認証にむけてロンドンへ




2008.11.8

UIA(国際建築家連合)教育委員会の建築教育認証システムは建築教育の国際水準を保証する為に、各国の教育システム認定機構を審査し、認証する。いよいよ日本のシステム(日本技術者教育認定機構: JABEE)が2008年12月にその審査を受けることとなった。その事前打合せに出席するために早稲田大学の古谷誠章教授とロンドンの英国建築家協会(RIBA)へ向かった。ロンドンは15年ぶりとなる。町の雰囲気もずいぶん変わった。Canary Wharfなどはもうロンドンの一部となり機能している。2012年のオリンピックに向けての建設ラッシュも見られる。ロンドンの町は明るくなったと感じた。ホテルはフィリップ・スタルクがインテリアを手がけたSanderson Hotelを取った。RIBAまで歩いて10分程の距離にある。スタルクは建築家というより、やはり内部建築家と言っていいだろう。「雰囲気」を提供する魔術師だ。
会議は3日間にわたって行われ、日本にての審査についての打合せはRIBAの審査チームとUIAのチームがUIAの名で行う,世界で初めての機構認証となる。その他に世界の教育情報の交換の場となるReflection Groupの会議も行われた。このように建築家の職能資格の互換性や国際教育の同等性など、グローバルな視点で国内情勢を見て行かないと、日本はガラパゴス化の道を歩むはめになってしまうことが、個人的な懸念だ。これからも僕の役目は、日本が如何に国際的でいられるかという方向性に寄与することだと改めて思った。

解放された4日目にはロンドン巡りに出掛けた。Canary Wharf、バッキンガム宮殿、ビッグベン、ロンドンブリッジ、フォスター、ロジャースなどの一連の作品を駆け足で散策してまわった。

またロンドンを訪れたい。


Monday, September 14, 2009

International Symposium on the Architectural Interchange in Asia (ISAIA)参加で北京オリンピック建築に遭遇した








2008.10.19

アジア建築交流国際シンポジウムは、日・中・韓建築学会の国際交流プログラムとして発足したイベントで、1987年に第一回シンポジウムを日本建築学会100周年記念行事として開催された。その後、数年間のブランクがあったが1998年に復活し,その後、2年間隔で開催されている。国際的にはInternational Symposium on the Architectural Interchange in Asia(ISAIA)として知られており、2008年の第7回北京大会では250余りの論文が採択され、多くの発表者で大会は盛り上がった。僕は滋賀県立大学教授の布野修司さんの後任で、日本建築学会よりアジア建築交流委員長としてシンポジウムへ参加するため北京へ向かった。大会は10月15〜17日の3日間の日程で開催されたが、国士舘大学からは南准教教授、原講師と数名の学生が同行した。今回の僕の役目は大会役員会への出席と、基調講演セッションで北京精華大学のZhuang Weimin教授とともにセッションチェアーを務めることだった。

大会初日の夜の交流ディナーは3カ国の研究者、学生のみならずアジア諸国、遠くは欧米などからも参加者が集い、刀削麺カッターの曲芸師、中国古楽器などのエンターテイメントなどの企画を楽しむ盛大な夕食会となった。僕が提案した各学会会長がそれぞれのテーブルを回る「乾杯行脚」でも会場は盛り上がった。

今回の北京大会で目玉となったのは、何と言っても3日目のエクスカーションだった。

8月の北京オリンピックの開・閉会式、陸上競技などの会場となった通称「鳥の巣」と水泳競技場の「ウォーターキューブ」などの内部を見学することが出来たのは建築家としては胸が高鳴る体験だった。実際にどれだけ環境サステナビリティを実現したからは明らかではないが(どうも結論としてはサステナブルではないらしい)、両施設ともデザイン的観点から評価するならば、非常に高い評価を得られるのは当然だと感じた。中国はWTO加盟から5年で確かに世界経済大国への仲間入りを果たしたと思った。僕たちが滞在した市街地だけなのだろうが、10年前に訪問した頃の「灰色」のイメージの北京とは全く違う整備された先進国的なイメージが目に焼き付いた。今後も中国の発展は止められないし、世界各国からの企業などが参入する中国市場には日本も絶対に参加しなければいけないと痛感した。僕自身も積極的に中国の動向に注目し、関わって行きたいと思った。

次回は第8回大会だが、主催は日本建築学会で2010年10月に開催される。帰国後、次回大会に向けて実行委員長とした開催候補地を選定していかなければならない。

アジアとのパイプラインはこのようなイベントをから発生するものだと思う。学生たちも大いに外国の若者たち、とくにアジアの学生たちと積極的に交流して欲しい。

Sunday, September 13, 2009

UIA2008年トリノ大会に参加する




2008.7.6

いよいよUIAトリノ大会「第23回世界建築会議」開会の時が来た。僕は2002年のベルリン大会に出席してから3年おきに開催される建築家のオリンピックに参加してきた。その度に日本を代表するJIA(日本建築家協会)は開催国誘致のために全力を尽くしてきた。1999年に名古屋市が立候補したが、地震の災害を被ったイスタンブールにその座を譲った。2002年には、結果として電子投票システムを導入することとなった迷走総会の歴史的な投票で、一次投票を一位で通過した東京がは結果として、トリノに惜負を喫した。その後、JIA本部の中枢である広報委員長、機関誌「建築家・architects」編集長を務めていた時期に、執行部の企画運営会議のメンバーとして2005年のイスタンブール大会で前川先生始め、諸先輩の念願を叶えるために「3度目の正直」を目指して開催地東京の再立候補を行うことが決まった。そして1年半に及ぶ準備期間、小倉会長のもとで僕は芦原、岩村、横河、古谷各氏、また事務局の安田、宮下各女史ら他、現在東京大会を支える全国のJIAメンバーの有志たちとトルコにおけるプレゼンテーションに臨んだ。
イスタンブールでは、岩村さんと僕と2人で東京に関するプレゼンテーションを行い南アフリカ連邦ダーバン市に僅か17票差で開催都市の権利を譲り受けたのだった。
それから3年経ち、2008年6月30日、いよいよイタリアから開催国としてバトンタッチを受けるトリノ大会が始まった。開会式は旧王家の宮殿で土砂降りの中で開催された。雨がやむのを一時間ほど待ち、屋外での式典が台無しになり、飲み物、食べ物もずぶ濡れになってもイタリア人たちは怯まず、開会式は和やかに行われ、一週間の祭典が開幕した。
2005年世界大会のあとに組織されたUIA2011年東京大会準備委員会では広報部会長となり、大会の意義、内容などを広報し参加者を確保する任務を仰せつかっている。トリノでも国際学術部会のメンバー、また実施設計を予定していながら実現しなかった35歳以下の国際コンペの審査委員長として歴史的なイタリア大会そのものに係ることができたことに非常に光栄に思っている。今回は東京大会のブース展示を、東京都オリンピック招致運動、建築学会、建築士会、事務所協会と共に設置し、世界各国から参加している建築家たちにアピールする機会を頂いた。東京オリンピック招致にはサステナブル東京10年計画を安藤忠雄氏がプロデュースしていることもあり、東京都と建築社会との思惑がマッチしたことが功を奏した。それもあって僕はトリノ大会のメイン会場で二つの講演を行うこととなった。一つは、文化遺産保存再生についての活動を通してサステナブル社会の構築を語った。もう一つは、東京の10年計画とグリーン都市宣言についてのプレゼンテーションだ。日本からのメインの講演は藤森照信氏。隈研吾両氏と僕の合計3名となる自分としてはマイブームとなった。講演会は無事に終わり(http://www.youtube.com/watch?v=6SKbQE1TpqA),日経アーキテクチャーの宮沢記者が「建築界のお祭り男」と掲載記事に報道してくれ、また業界新聞にも東京オリンピック招致に関する講演について(のみ?)が掲載された。実は僕の専門はアジアにおける文化遺産保存再生だということも知ってもらいたかった。
トリノ大会での広報活動として、地元の団体であるCASARTARCとの共催により、広報部会が企画したもう一つのイベント「日本建築家展」も大成功に終わった。市内の文化遺産であるCa vellerizza(旧王室厩舎)の大空間にて開催されたこの展覧会は400名余りの日本人建築家たちの作品を紹介し大会参加者、および一般市民から好評であった。
こうして、トリノ大会は1万人近く参加者を迎え、成功裏に終わった。ただし、ひとつだけ大会最終日に不運が関係者全員を襲った。会長選挙で僕たちJIAが所属する第4地区の副会長であるルイーズ・コックス副会長とジョンカルロ・イウス副会長との一騎打ちになったが、立候補のスピーチと投票の当日早朝にジョンカルロが心臓麻痺で急死するという悲しい出来事が起き、したがって会長選当日は涙の1日となり、また消化不良の納得のいかない会長選となった。また2014年の大会は前回僅票の差で惜負したダーバンが、これまたたったの2票差でシンガポールを抑えて開催の権利を手にした。
こうして、2002年から務めてきた第4地区次席理事の任務も無事に終え、トリノ大会への参加を全うした。次はいよいよ東京大会だ。

写真は講演会風景、パオロ・ソレリ氏との記念写真、ARCASIA展覧会風景


George Returns! 国広ブログ「Oneasia」再開!



今日は2009年9月13日(日)です。昨年の6月以来、一年間結果として『お休み』を取ってしまいました。本日を持ちまして、国広ジョージの「Oneasia」ブログを再開致します。まずは、この一年間の主な出来事をまとめてアップさせて頂きます。
今後ともよろしくお願い致します。

I have been away from uploading my blog.
As of today, September 13, 2009, I will resume
my blog activity.

I hope you will follow my blog.

George Kunihiro, FAIA
くにひろじょーじ
東京にて

Monday, July 07, 2008

UIA Infopoint国際コンペを審査する

2008.04.25

再びトリノにやってきた。一ヶ月前のコンペ審査の続きだ。
2週間かけ第一段階のネット審査を終え各自50作品を選んでトリノへ戻ってきた。
一日で結果を出さなければならない。地元ではゴールデンウィークのような連休で審査員も今夜から旅行にでるという。審査会場の大会本部もマネージャーだけが出勤している様子でひっそりとしていた。
僕たちは従来のコンペ審査のようにディスカッションを繰り返し、優秀賞、2、3等を選んだ。このコンペはトリノのメインの広場であるマダモ広場に情報キオスクを設計するというテーマで、優秀作品は大会までに実施設計を終え建築として実現することになっている。審査の結果、優秀賞はスペインからの作品に与えることになった。

【GK】

潮干狩り

2008.4.5

今日は釜山市長への表敬訪問の日だ。国際会議などのコンベンション誘致に非常に力を注いでいる釜山だがARCASIAへの対応も積極的だ。今回、釜山市は大韓建築士協会(KIRA)釜山支部へ土地を提供し、KIRAがその一部をARCASIA関連施設として提供するという構想のもとでARCASIA参加国対象の国際コンペを開催するというのだ。

僕たち一行は釜山市庁舎を訪れ市長と面会した。国際組織のメンバーが市長を訪問するのは、地元主催者である韓国の建築家としては、彼らの国際方針の後押しとなるということで歓迎される。今回もそのような雰囲気だった。
表敬訪問、敷地視察などを終え、役員会は解散した。午後は砂浜で簡単な潮干狩りをやった。ビーチを歩いていると何人かの人たちが砂を掘ってアサリをとっている光景を目にしているので、自分もやってみたくなり、素手で砂を掘り始めるとびっくりするほどそこら中にアサリがいるのを発見した。30分ほど掘り続けるとコンビニ袋一杯ななるほどアサリが採れたのだ!日本は優良だし、このような天然な潮干狩りではないし、ちょっとした午後の散歩が楽しい潮干狩りとなり僕はとても満足だった。
さっそくホテルの戻り、アサリをレストランに持っていき、料理をしてもらうようにお願いした.夕食はアサリ料理となる。6時にレストランへ下りていくと、シェフがなんとアサリ料理6品も用意していてくれた。残念ながらアサリの砂を吐かせる時間が十分ではなかった結果、じゃりじゃりとした料理となったが、心のこもったスペシャルな創作料理のセットを頂けたので、僕はとても満足だった。

【GK】

釜山の春






2008.4.4

新学期が始まった。
理工学部理工学科となり2年目の春がきた。中東の砂漠と地中海の山を訪れ、東京に戻ると桜が満開だった。
息をつく間もなく、僕は韓国・釜山へと飛んだ。ソウル、光州市など何回か韓国には訪れているが、南部の第2都市釜山は初めてとなる。僕はアジア建築家評議会(ARCASIA)の役員会へ出席するためにこの地を訪れた。今年の秋に開催されるARCASIA Forum 14を前に韓国出身のYi会長が、施設の視察を兼ね釜山に役員を集めたというわけだ。
釜山は3方を山に囲まれた港町で緑の山々と日本海の青い海とが交わる景観性豊かな都市だ。
数年前にAPEC会議が開催され、またサッカーワールドカップの試合も行われたという
国際都市だ。役員会は海岸を目の前にしたリゾートホテルで行われ、韓国でも有名内建築家で友人のリュウさんが設計したAPECハウス、Bexcoと呼ばれるコンベンションセンターなどの施設を視察した。
夜は焼き肉ディナーではインド、フィリピン、タイ、シンガポールからやってきた役員、また地元主催者たちと大いに盛り上がった。

【GK】

「トリノで若手建築家の国際コンペを審査する」


2008.3.28

UAEでの会議を終了し、イタリア・トリノへと向かった.4回目のトリノだ。UIA世界大会の開催を6月末に控え、35歳以下の若手建築家を対象とした国際コンペが行われ、僕は審査員として招聘されたのだ。他にはケニア、ギリシャ、アメリカ、イタリアからそれぞれ審査員が集まった。通常だとここで審査会開かれるのだが、今回イタリアで開発されたインターネット上での審査方式が取り入れられるということが説明された.今日はその審査形式の説明とルールを共有するために招集されたということが分かった。しかし、実際には審査員各自が自国へもどり600余りの作品をコンピューター上で審査するということは40時間近くかかるという計算になる。これはとてもではないが、我々審査員には受け入れられない。まして、コンペ審査というものは審査員が顔を合わせて、お互いの意見交換しながら、優秀作品を選んでいくものである。時にはお互いを説得して、ディスカッションの流れを変えることもある。ネット上での審査だと、この重要な過程がなくなり、本来のコンペ審査の在り方がまったく変わってしまう。
審査員長として選出された僕は、主催者に抗議をし、1ヶ月後の再び、ここトリノに集まり、審査会を開催するよう要請した。その間、僕たちは、応募案の中から50作品を選び事務局へ提出することを約束した。
今日の集まりはこのような結果で終了した。
          
    【GK】                              

「男女共学、勉学環境は区画?」







2008.3.25

僕が招待された国際都市計画会議はアジマン(Ajman)という首長国で開かれた。AjmanはSharjahの東に位置する小さな首長国だ。UAEというと、アブダビ(Abu Dabi)とドバイDubaiが資源豊かな首長国で世界中が注目している首長国-都市だが、Ajmanは3方をSharjahに囲まれた狭小首長国で油田は皆無と言っていいほど産出されていない。基本的には、Abu Dabi, Dubaiの石油・金融資源によって他の5首長国の経済が成立していると言っていい。したがって、首長国会議の議長、つまり大統領はAbu Dabi の首長であり、首相はDubaiの首長一族からでているという決められた形態でこの国は成り立っている。
Ajman University of Science and TechnologyとAjman都市計画局の共催により企画されたこの会議にはリチャード・マイヤー、ピーター・アイゼンマン、ハンス・ホラインなどの著名建築家も招聘されていた。
僕たち招待者一行はバスでAjman宮殿へRulerと呼ばれる首長への表敬訪問をおこなった。宮殿の応接間は大理石張りの比較的質素な内装で奥行きが極端に長い平面をもつ部屋だった。
到着後数分待機しているとRulerが2階より下りてきて一行を迎えた。とくに会話がある訳でもなかったが、記念写真を撮って表敬訪問はあっという間に終わった。正式訪問が終了しRulerが退席したあと、一行はバスに戻り、会議の会場となる大学へと向かった。
大学に到着して、ちょっとびっくりした。ここは男女別々の教室で勉強するようになっている。大学の出入口、教室群、教員との面談時間帯などはすべて男女別々になっていた。つまり、キャンパス内では男女学生それぞれが顔を合わせることが出来ないのだ!今回の国際会議で初めて一つの部屋に男女が出入りすることができたのだ。会場は左側に女子学生、右側に男子学生、中央に一般聴講客というようにレイアウトされていた。僕は自然の流れで左側に座った。国際会議のテーマは「都市の未来について」で、Ajmanではドバイなどの開発を見ながら自らも開発に乗り出そうという目論みらしい。僕はmAAN活動を中心とした都市再生をテーマに講演した。
さて、講演が終わると、僕の周りに学生が集まり、サインを求められた。彼らにとってこれだけの講師が集まる国際会議にとても興奮している模様だ。僕は、スケッチを描きサインをしてあげると、たちまち噂が広まり、他の発表者が講演している最中でも僕の前には学生の列が絶え間なく並んだ。とくにさまざまな姿をしたイスラム系女子学生に囲まれたが、黒服を着用し目だけしか見せていない学生、頭にスカーフを被った学生からミニスカートの派手やかな姿をした女子学生などイスラム女子学生たちのこの幅広いスタイルにびっくりした。僕にとってイスラム系の学生たちと接触できる楽しい国際会議となった。
その夜はRuler一族が所有する砂漠の別荘で歓迎会が開催された。
砂漠のど真ん中に位置する大邸宅、まるでアリゾナの砂漠にでもいるような現代建築が広い敷地に建っていた。鷹使いが1000万円もする鷹を披露してくれ、ラクダ使いがラクダを披露してくれ、アラブスタイルのマスクを被った女性たちがアラブ風のパン焼き風景をしてくれた。歓迎会はこのモダンスタイルの邸宅のプールサイドで行われた。DJ音楽、センセイショナルな花火ショーなど華やかなエンターテインメントを背景にノンアルコールパーティは無事に閉会した。歓迎会は今日のUAEを物語っていると思った。


【GK】

「ドバイへ」






2008.3.24

大学教員は3月になるとまた一学年の卒業を体験する。今年も大勢の卒業生を建築の世界へ送り出しほっとした。卒業式が終わると、またUIAトリノ世界大会に関連した旅に出た。今回は35歳以下の建築家を対象とした国際コンペの審査だ。2月にメキシコで国際コンペの審査を体験したばかりだが、このようなコンペの審査を仰せつかるのは光栄であるとともにヤリガイのある役目だ。この旅では、もう一つの目的があった。アラブ首長国連邦の首長国のひとつであるアジマンから招聘され国際都市計画会議に招聘されたのだ。ここでは、スピーカーとして講演を依頼された。ここ数年パキスタン、マレーシアなどのイスラム国家にて国際会議に招聘され講演を行ってきたが、いま旬であるUAEを訪問することができるので、気持ちが高揚した。
羽田より、関空経由でエミレーツ航空にてドバイに到着したのは早朝5時であった。
砂漠の国UAE.空港は近代的であり、またこの国の首長は1960年代後半よりこの空港を世界主要ハブ空港となるように育ててきた。雰囲気はアラブ・イスラム圏だが、働く人たち、行き交う利用者たちはまさにグローバルな人々たちばかりだ。ボクの滞在するホテルはドバイ首長国のとなりのシャルジャ(Sharjah)にある5つ星ホテルだ。人工湖とその周りに立ち並ぶ近代的な高層ビルを見渡すホテルだ。まさに砂漠のオアシス。その向こうにはアラビア海が開けている。
実はまだ講演会のパワーポイントの準備ができていない。この日は一日講演の準備に明け暮れた。


【GK】
              

Sunday, April 27, 2008

バラガンとレゴレッタの建築思想は対照的






2008.02.18

今朝はErnesto Alva氏の案内でバラガン自邸へ特別拝観することになった。ここでもパナマ建築大学の学生•教員一行が来ていて,一緒に内部をじっくりと見学することが出来た。
バラガン自邸も外観は周囲の建物と全く変わりがないコンテキストにジャストフィットした建物だ。バラガンは何棟かの建物を段階的に買収し、増築を重ねていったそうだ。裏口のような比較的狭い玄関から入るとエントランスホールにつながる。ここは階段室で階段は黒、右壁面はバラガンピンク、階段を上り切った対面の壁にはGoeritzの金箔に塗られたキャンバスが掲げられている。
学生たちと高い天井となっているリビングルーム、ダイニングルームを回る。撮影禁止でも必死でシャッターを切りまくる。庭に面した大きな窓と本棚にあるバラガンの図書が印象的だった。ダイニングルームから寝室にあがるあの有名なキャンテレバーの木製階段には感激した!
2階はプライバシーが保たれているとは言うものの、そもそもこの自邸そのものが隠れ家となっている。庭に出る途中に噴水があるコートヤードがあった。雰囲気はスリランカのジェフリー•バワ建築に似ていた。ゲイ(だったという噂のバラガン)の繊細な感性からくる独特のデザインなのか?
2時間以上バラガン自邸で見学し、すばらしいエネルギーをもらった気持ちになった。
Alva氏に感謝!!!
見学が終わって一旦ホテルの戻り、今度はバラガンのコラボレーターであったメキシコを代表する現代建築家で1980年プリッズカー賞受賞者であるリカルド•レゴレッタのカミノレアールホテルを見学しに出掛ける
このホテルはレゴレッタを世界的建築家にした名作だ。建築的にはド派手である。バラガンカラーをふんだんに使い空間的には噴水や水面を利用し、ドラマッチクな建築を実現している。内向的なバラガンに対して自己表現を駆使したというような作品だ。いかにもメキシコ•ラテン系精神だ。
一通り回ったあと、郊外のリヴェラ•カロ夫妻の世界を体験しに向かった。
トロッツキー博物館、カロ邸、リヴェラスタジオなど1930年代のメキシコモダニズムと左翼運動の雰囲気を体感した。

ホテルの戻り、おしゃれなニューベルキュジーヌの夕食でメキシコ滞在を締めくくった。

                                                              【GK】

世界遺産の大学キャンパスとバラガン修道院







2008.02.17

今日はコンぺ審査委員のフェリーペ•リアール教授の案内でメキシコ国立大学のキャンパスを午前中に案内してもらうことになった。ちょうどアメリカのテキサス大学から学生と教員が交換留学で滞在中の彼らとキャンパス巡りをするという。引率の教員はなんと僕のコロンビア大学の教え子のミゲール•リヴェラ君のパートナーだということが分かり、びっくりした。早速、国際電話でテキサスに電話を掛けてもらって12、3年ぶりにミゲールと話をした。彼等はテキサスでアトリエ事務所を構え、がんばって良い作品を発表しているらしい。懐かしかった。
フェリーペと合流したあと、学生たちとレンタル自転車でキャンパスを周り建築を見学した。広大なキャンパスは環境共生型の開発をしており、また、世界遺産にも登録されているモダニズムの名作である。
壁画で有名なキャンパス棟、地元の溶岩から切り出した石材を使用したスタジアム、最新の現代美術館の施行現場、そしてフェリーぺが設計を手がけたサッカーグッズショップなどメキシコ近現代建築の50年が一度に体験できたことで上機嫌になった。
午後はメキシコで最も著名な建築家、1980年度プリッツカー賞受賞者ルイス•バラガン設計の修道院を訪れた。外観は全く内部の空間のドラマを感じさせない町並みに馴染んだファサードだ。門をくぐって内部に入るとコートヤードが中央にあり、そこにはバラガン建築独特のピンクの格子と噴水が明るいメキシコの太陽を受けて空間を引き立てていた。修道院の内部も、壁面のテクスチャーと窓から差し込む光が程よく礼拝堂内を反射、拡散し神秘的な空間を創りだしている。中央教壇の背後にある壁にはバラガンのコラボレーターとして多くの家具や彫刻をデザインしたドイツ人アーティストMathias Goeritzによる金箔に塗られた三分割の木製版が輝いていた。
明日は、バラガン邸とレゴレッタ建築、そしてフリーダ•カロとディエゴ•リヴェラの世界を見に行く。

メキシコに来て感じたのは、歴史と文化が芸術により,各時代を明確に表現されていることだ。ソビエト連邦においての革命までが、トロッツキーとカロとリヴェラによって芸術化されているのも不思議だといえよう。

                                                          【GK】