Monday, September 14, 2009

International Symposium on the Architectural Interchange in Asia (ISAIA)参加で北京オリンピック建築に遭遇した








2008.10.19

アジア建築交流国際シンポジウムは、日・中・韓建築学会の国際交流プログラムとして発足したイベントで、1987年に第一回シンポジウムを日本建築学会100周年記念行事として開催された。その後、数年間のブランクがあったが1998年に復活し,その後、2年間隔で開催されている。国際的にはInternational Symposium on the Architectural Interchange in Asia(ISAIA)として知られており、2008年の第7回北京大会では250余りの論文が採択され、多くの発表者で大会は盛り上がった。僕は滋賀県立大学教授の布野修司さんの後任で、日本建築学会よりアジア建築交流委員長としてシンポジウムへ参加するため北京へ向かった。大会は10月15〜17日の3日間の日程で開催されたが、国士舘大学からは南准教教授、原講師と数名の学生が同行した。今回の僕の役目は大会役員会への出席と、基調講演セッションで北京精華大学のZhuang Weimin教授とともにセッションチェアーを務めることだった。

大会初日の夜の交流ディナーは3カ国の研究者、学生のみならずアジア諸国、遠くは欧米などからも参加者が集い、刀削麺カッターの曲芸師、中国古楽器などのエンターテイメントなどの企画を楽しむ盛大な夕食会となった。僕が提案した各学会会長がそれぞれのテーブルを回る「乾杯行脚」でも会場は盛り上がった。

今回の北京大会で目玉となったのは、何と言っても3日目のエクスカーションだった。

8月の北京オリンピックの開・閉会式、陸上競技などの会場となった通称「鳥の巣」と水泳競技場の「ウォーターキューブ」などの内部を見学することが出来たのは建築家としては胸が高鳴る体験だった。実際にどれだけ環境サステナビリティを実現したからは明らかではないが(どうも結論としてはサステナブルではないらしい)、両施設ともデザイン的観点から評価するならば、非常に高い評価を得られるのは当然だと感じた。中国はWTO加盟から5年で確かに世界経済大国への仲間入りを果たしたと思った。僕たちが滞在した市街地だけなのだろうが、10年前に訪問した頃の「灰色」のイメージの北京とは全く違う整備された先進国的なイメージが目に焼き付いた。今後も中国の発展は止められないし、世界各国からの企業などが参入する中国市場には日本も絶対に参加しなければいけないと痛感した。僕自身も積極的に中国の動向に注目し、関わって行きたいと思った。

次回は第8回大会だが、主催は日本建築学会で2010年10月に開催される。帰国後、次回大会に向けて実行委員長とした開催候補地を選定していかなければならない。

アジアとのパイプラインはこのようなイベントをから発生するものだと思う。学生たちも大いに外国の若者たち、とくにアジアの学生たちと積極的に交流して欲しい。

Sunday, September 13, 2009

UIA2008年トリノ大会に参加する




2008.7.6

いよいよUIAトリノ大会「第23回世界建築会議」開会の時が来た。僕は2002年のベルリン大会に出席してから3年おきに開催される建築家のオリンピックに参加してきた。その度に日本を代表するJIA(日本建築家協会)は開催国誘致のために全力を尽くしてきた。1999年に名古屋市が立候補したが、地震の災害を被ったイスタンブールにその座を譲った。2002年には、結果として電子投票システムを導入することとなった迷走総会の歴史的な投票で、一次投票を一位で通過した東京がは結果として、トリノに惜負を喫した。その後、JIA本部の中枢である広報委員長、機関誌「建築家・architects」編集長を務めていた時期に、執行部の企画運営会議のメンバーとして2005年のイスタンブール大会で前川先生始め、諸先輩の念願を叶えるために「3度目の正直」を目指して開催地東京の再立候補を行うことが決まった。そして1年半に及ぶ準備期間、小倉会長のもとで僕は芦原、岩村、横河、古谷各氏、また事務局の安田、宮下各女史ら他、現在東京大会を支える全国のJIAメンバーの有志たちとトルコにおけるプレゼンテーションに臨んだ。
イスタンブールでは、岩村さんと僕と2人で東京に関するプレゼンテーションを行い南アフリカ連邦ダーバン市に僅か17票差で開催都市の権利を譲り受けたのだった。
それから3年経ち、2008年6月30日、いよいよイタリアから開催国としてバトンタッチを受けるトリノ大会が始まった。開会式は旧王家の宮殿で土砂降りの中で開催された。雨がやむのを一時間ほど待ち、屋外での式典が台無しになり、飲み物、食べ物もずぶ濡れになってもイタリア人たちは怯まず、開会式は和やかに行われ、一週間の祭典が開幕した。
2005年世界大会のあとに組織されたUIA2011年東京大会準備委員会では広報部会長となり、大会の意義、内容などを広報し参加者を確保する任務を仰せつかっている。トリノでも国際学術部会のメンバー、また実施設計を予定していながら実現しなかった35歳以下の国際コンペの審査委員長として歴史的なイタリア大会そのものに係ることができたことに非常に光栄に思っている。今回は東京大会のブース展示を、東京都オリンピック招致運動、建築学会、建築士会、事務所協会と共に設置し、世界各国から参加している建築家たちにアピールする機会を頂いた。東京オリンピック招致にはサステナブル東京10年計画を安藤忠雄氏がプロデュースしていることもあり、東京都と建築社会との思惑がマッチしたことが功を奏した。それもあって僕はトリノ大会のメイン会場で二つの講演を行うこととなった。一つは、文化遺産保存再生についての活動を通してサステナブル社会の構築を語った。もう一つは、東京の10年計画とグリーン都市宣言についてのプレゼンテーションだ。日本からのメインの講演は藤森照信氏。隈研吾両氏と僕の合計3名となる自分としてはマイブームとなった。講演会は無事に終わり(http://www.youtube.com/watch?v=6SKbQE1TpqA),日経アーキテクチャーの宮沢記者が「建築界のお祭り男」と掲載記事に報道してくれ、また業界新聞にも東京オリンピック招致に関する講演について(のみ?)が掲載された。実は僕の専門はアジアにおける文化遺産保存再生だということも知ってもらいたかった。
トリノ大会での広報活動として、地元の団体であるCASARTARCとの共催により、広報部会が企画したもう一つのイベント「日本建築家展」も大成功に終わった。市内の文化遺産であるCa vellerizza(旧王室厩舎)の大空間にて開催されたこの展覧会は400名余りの日本人建築家たちの作品を紹介し大会参加者、および一般市民から好評であった。
こうして、トリノ大会は1万人近く参加者を迎え、成功裏に終わった。ただし、ひとつだけ大会最終日に不運が関係者全員を襲った。会長選挙で僕たちJIAが所属する第4地区の副会長であるルイーズ・コックス副会長とジョンカルロ・イウス副会長との一騎打ちになったが、立候補のスピーチと投票の当日早朝にジョンカルロが心臓麻痺で急死するという悲しい出来事が起き、したがって会長選当日は涙の1日となり、また消化不良の納得のいかない会長選となった。また2014年の大会は前回僅票の差で惜負したダーバンが、これまたたったの2票差でシンガポールを抑えて開催の権利を手にした。
こうして、2002年から務めてきた第4地区次席理事の任務も無事に終え、トリノ大会への参加を全うした。次はいよいよ東京大会だ。

写真は講演会風景、パオロ・ソレリ氏との記念写真、ARCASIA展覧会風景


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George Returns! 国広ブログ「Oneasia」再開!



今日は2009年9月13日(日)です。昨年の6月以来、一年間結果として『お休み』を取ってしまいました。本日を持ちまして、国広ジョージの「Oneasia」ブログを再開致します。まずは、この一年間の主な出来事をまとめてアップさせて頂きます。
今後ともよろしくお願い致します。

I have been away from uploading my blog.
As of today, September 13, 2009, I will resume
my blog activity.

I hope you will follow my blog.

George Kunihiro, FAIA
くにひろじょーじ
東京にて

Monday, July 07, 2008

UIA Infopoint国際コンペを審査する

2008.04.25

再びトリノにやってきた。一ヶ月前のコンペ審査の続きだ。
2週間かけ第一段階のネット審査を終え各自50作品を選んでトリノへ戻ってきた。
一日で結果を出さなければならない。地元ではゴールデンウィークのような連休で審査員も今夜から旅行にでるという。審査会場の大会本部もマネージャーだけが出勤している様子でひっそりとしていた。
僕たちは従来のコンペ審査のようにディスカッションを繰り返し、優秀賞、2、3等を選んだ。このコンペはトリノのメインの広場であるマダモ広場に情報キオスクを設計するというテーマで、優秀作品は大会までに実施設計を終え建築として実現することになっている。審査の結果、優秀賞はスペインからの作品に与えることになった。

【GK】

潮干狩り

2008.4.5

今日は釜山市長への表敬訪問の日だ。国際会議などのコンベンション誘致に非常に力を注いでいる釜山だがARCASIAへの対応も積極的だ。今回、釜山市は大韓建築士協会(KIRA)釜山支部へ土地を提供し、KIRAがその一部をARCASIA関連施設として提供するという構想のもとでARCASIA参加国対象の国際コンペを開催するというのだ。

僕たち一行は釜山市庁舎を訪れ市長と面会した。国際組織のメンバーが市長を訪問するのは、地元主催者である韓国の建築家としては、彼らの国際方針の後押しとなるということで歓迎される。今回もそのような雰囲気だった。
表敬訪問、敷地視察などを終え、役員会は解散した。午後は砂浜で簡単な潮干狩りをやった。ビーチを歩いていると何人かの人たちが砂を掘ってアサリをとっている光景を目にしているので、自分もやってみたくなり、素手で砂を掘り始めるとびっくりするほどそこら中にアサリがいるのを発見した。30分ほど掘り続けるとコンビニ袋一杯ななるほどアサリが採れたのだ!日本は優良だし、このような天然な潮干狩りではないし、ちょっとした午後の散歩が楽しい潮干狩りとなり僕はとても満足だった。
さっそくホテルの戻り、アサリをレストランに持っていき、料理をしてもらうようにお願いした.夕食はアサリ料理となる。6時にレストランへ下りていくと、シェフがなんとアサリ料理6品も用意していてくれた。残念ながらアサリの砂を吐かせる時間が十分ではなかった結果、じゃりじゃりとした料理となったが、心のこもったスペシャルな創作料理のセットを頂けたので、僕はとても満足だった。

【GK】

釜山の春






2008.4.4

新学期が始まった。
理工学部理工学科となり2年目の春がきた。中東の砂漠と地中海の山を訪れ、東京に戻ると桜が満開だった。
息をつく間もなく、僕は韓国・釜山へと飛んだ。ソウル、光州市など何回か韓国には訪れているが、南部の第2都市釜山は初めてとなる。僕はアジア建築家評議会(ARCASIA)の役員会へ出席するためにこの地を訪れた。今年の秋に開催されるARCASIA Forum 14を前に韓国出身のYi会長が、施設の視察を兼ね釜山に役員を集めたというわけだ。
釜山は3方を山に囲まれた港町で緑の山々と日本海の青い海とが交わる景観性豊かな都市だ。
数年前にAPEC会議が開催され、またサッカーワールドカップの試合も行われたという
国際都市だ。役員会は海岸を目の前にしたリゾートホテルで行われ、韓国でも有名内建築家で友人のリュウさんが設計したAPECハウス、Bexcoと呼ばれるコンベンションセンターなどの施設を視察した。
夜は焼き肉ディナーではインド、フィリピン、タイ、シンガポールからやってきた役員、また地元主催者たちと大いに盛り上がった。

【GK】

「トリノで若手建築家の国際コンペを審査する」


2008.3.28

UAEでの会議を終了し、イタリア・トリノへと向かった.4回目のトリノだ。UIA世界大会の開催を6月末に控え、35歳以下の若手建築家を対象とした国際コンペが行われ、僕は審査員として招聘されたのだ。他にはケニア、ギリシャ、アメリカ、イタリアからそれぞれ審査員が集まった。通常だとここで審査会開かれるのだが、今回イタリアで開発されたインターネット上での審査方式が取り入れられるということが説明された.今日はその審査形式の説明とルールを共有するために招集されたということが分かった。しかし、実際には審査員各自が自国へもどり600余りの作品をコンピューター上で審査するということは40時間近くかかるという計算になる。これはとてもではないが、我々審査員には受け入れられない。まして、コンペ審査というものは審査員が顔を合わせて、お互いの意見交換しながら、優秀作品を選んでいくものである。時にはお互いを説得して、ディスカッションの流れを変えることもある。ネット上での審査だと、この重要な過程がなくなり、本来のコンペ審査の在り方がまったく変わってしまう。
審査員長として選出された僕は、主催者に抗議をし、1ヶ月後の再び、ここトリノに集まり、審査会を開催するよう要請した。その間、僕たちは、応募案の中から50作品を選び事務局へ提出することを約束した。
今日の集まりはこのような結果で終了した。
          
    【GK】                              

「男女共学、勉学環境は区画?」







2008.3.25

僕が招待された国際都市計画会議はアジマン(Ajman)という首長国で開かれた。AjmanはSharjahの東に位置する小さな首長国だ。UAEというと、アブダビ(Abu Dabi)とドバイDubaiが資源豊かな首長国で世界中が注目している首長国-都市だが、Ajmanは3方をSharjahに囲まれた狭小首長国で油田は皆無と言っていいほど産出されていない。基本的には、Abu Dabi, Dubaiの石油・金融資源によって他の5首長国の経済が成立していると言っていい。したがって、首長国会議の議長、つまり大統領はAbu Dabi の首長であり、首相はDubaiの首長一族からでているという決められた形態でこの国は成り立っている。
Ajman University of Science and TechnologyとAjman都市計画局の共催により企画されたこの会議にはリチャード・マイヤー、ピーター・アイゼンマン、ハンス・ホラインなどの著名建築家も招聘されていた。
僕たち招待者一行はバスでAjman宮殿へRulerと呼ばれる首長への表敬訪問をおこなった。宮殿の応接間は大理石張りの比較的質素な内装で奥行きが極端に長い平面をもつ部屋だった。
到着後数分待機しているとRulerが2階より下りてきて一行を迎えた。とくに会話がある訳でもなかったが、記念写真を撮って表敬訪問はあっという間に終わった。正式訪問が終了しRulerが退席したあと、一行はバスに戻り、会議の会場となる大学へと向かった。
大学に到着して、ちょっとびっくりした。ここは男女別々の教室で勉強するようになっている。大学の出入口、教室群、教員との面談時間帯などはすべて男女別々になっていた。つまり、キャンパス内では男女学生それぞれが顔を合わせることが出来ないのだ!今回の国際会議で初めて一つの部屋に男女が出入りすることができたのだ。会場は左側に女子学生、右側に男子学生、中央に一般聴講客というようにレイアウトされていた。僕は自然の流れで左側に座った。国際会議のテーマは「都市の未来について」で、Ajmanではドバイなどの開発を見ながら自らも開発に乗り出そうという目論みらしい。僕はmAAN活動を中心とした都市再生をテーマに講演した。
さて、講演が終わると、僕の周りに学生が集まり、サインを求められた。彼らにとってこれだけの講師が集まる国際会議にとても興奮している模様だ。僕は、スケッチを描きサインをしてあげると、たちまち噂が広まり、他の発表者が講演している最中でも僕の前には学生の列が絶え間なく並んだ。とくにさまざまな姿をしたイスラム系女子学生に囲まれたが、黒服を着用し目だけしか見せていない学生、頭にスカーフを被った学生からミニスカートの派手やかな姿をした女子学生などイスラム女子学生たちのこの幅広いスタイルにびっくりした。僕にとってイスラム系の学生たちと接触できる楽しい国際会議となった。
その夜はRuler一族が所有する砂漠の別荘で歓迎会が開催された。
砂漠のど真ん中に位置する大邸宅、まるでアリゾナの砂漠にでもいるような現代建築が広い敷地に建っていた。鷹使いが1000万円もする鷹を披露してくれ、ラクダ使いがラクダを披露してくれ、アラブスタイルのマスクを被った女性たちがアラブ風のパン焼き風景をしてくれた。歓迎会はこのモダンスタイルの邸宅のプールサイドで行われた。DJ音楽、センセイショナルな花火ショーなど華やかなエンターテインメントを背景にノンアルコールパーティは無事に閉会した。歓迎会は今日のUAEを物語っていると思った。


【GK】

「ドバイへ」






2008.3.24

大学教員は3月になるとまた一学年の卒業を体験する。今年も大勢の卒業生を建築の世界へ送り出しほっとした。卒業式が終わると、またUIAトリノ世界大会に関連した旅に出た。今回は35歳以下の建築家を対象とした国際コンペの審査だ。2月にメキシコで国際コンペの審査を体験したばかりだが、このようなコンペの審査を仰せつかるのは光栄であるとともにヤリガイのある役目だ。この旅では、もう一つの目的があった。アラブ首長国連邦の首長国のひとつであるアジマンから招聘され国際都市計画会議に招聘されたのだ。ここでは、スピーカーとして講演を依頼された。ここ数年パキスタン、マレーシアなどのイスラム国家にて国際会議に招聘され講演を行ってきたが、いま旬であるUAEを訪問することができるので、気持ちが高揚した。
羽田より、関空経由でエミレーツ航空にてドバイに到着したのは早朝5時であった。
砂漠の国UAE.空港は近代的であり、またこの国の首長は1960年代後半よりこの空港を世界主要ハブ空港となるように育ててきた。雰囲気はアラブ・イスラム圏だが、働く人たち、行き交う利用者たちはまさにグローバルな人々たちばかりだ。ボクの滞在するホテルはドバイ首長国のとなりのシャルジャ(Sharjah)にある5つ星ホテルだ。人工湖とその周りに立ち並ぶ近代的な高層ビルを見渡すホテルだ。まさに砂漠のオアシス。その向こうにはアラビア海が開けている。
実はまだ講演会のパワーポイントの準備ができていない。この日は一日講演の準備に明け暮れた。


【GK】
              

Sunday, April 27, 2008

バラガンとレゴレッタの建築思想は対照的






2008.02.18

今朝はErnesto Alva氏の案内でバラガン自邸へ特別拝観することになった。ここでもパナマ建築大学の学生•教員一行が来ていて,一緒に内部をじっくりと見学することが出来た。
バラガン自邸も外観は周囲の建物と全く変わりがないコンテキストにジャストフィットした建物だ。バラガンは何棟かの建物を段階的に買収し、増築を重ねていったそうだ。裏口のような比較的狭い玄関から入るとエントランスホールにつながる。ここは階段室で階段は黒、右壁面はバラガンピンク、階段を上り切った対面の壁にはGoeritzの金箔に塗られたキャンバスが掲げられている。
学生たちと高い天井となっているリビングルーム、ダイニングルームを回る。撮影禁止でも必死でシャッターを切りまくる。庭に面した大きな窓と本棚にあるバラガンの図書が印象的だった。ダイニングルームから寝室にあがるあの有名なキャンテレバーの木製階段には感激した!
2階はプライバシーが保たれているとは言うものの、そもそもこの自邸そのものが隠れ家となっている。庭に出る途中に噴水があるコートヤードがあった。雰囲気はスリランカのジェフリー•バワ建築に似ていた。ゲイ(だったという噂のバラガン)の繊細な感性からくる独特のデザインなのか?
2時間以上バラガン自邸で見学し、すばらしいエネルギーをもらった気持ちになった。
Alva氏に感謝!!!
見学が終わって一旦ホテルの戻り、今度はバラガンのコラボレーターであったメキシコを代表する現代建築家で1980年プリッズカー賞受賞者であるリカルド•レゴレッタのカミノレアールホテルを見学しに出掛ける
このホテルはレゴレッタを世界的建築家にした名作だ。建築的にはド派手である。バラガンカラーをふんだんに使い空間的には噴水や水面を利用し、ドラマッチクな建築を実現している。内向的なバラガンに対して自己表現を駆使したというような作品だ。いかにもメキシコ•ラテン系精神だ。
一通り回ったあと、郊外のリヴェラ•カロ夫妻の世界を体験しに向かった。
トロッツキー博物館、カロ邸、リヴェラスタジオなど1930年代のメキシコモダニズムと左翼運動の雰囲気を体感した。

ホテルの戻り、おしゃれなニューベルキュジーヌの夕食でメキシコ滞在を締めくくった。

                                                              【GK】

世界遺産の大学キャンパスとバラガン修道院







2008.02.17

今日はコンぺ審査委員のフェリーペ•リアール教授の案内でメキシコ国立大学のキャンパスを午前中に案内してもらうことになった。ちょうどアメリカのテキサス大学から学生と教員が交換留学で滞在中の彼らとキャンパス巡りをするという。引率の教員はなんと僕のコロンビア大学の教え子のミゲール•リヴェラ君のパートナーだということが分かり、びっくりした。早速、国際電話でテキサスに電話を掛けてもらって12、3年ぶりにミゲールと話をした。彼等はテキサスでアトリエ事務所を構え、がんばって良い作品を発表しているらしい。懐かしかった。
フェリーペと合流したあと、学生たちとレンタル自転車でキャンパスを周り建築を見学した。広大なキャンパスは環境共生型の開発をしており、また、世界遺産にも登録されているモダニズムの名作である。
壁画で有名なキャンパス棟、地元の溶岩から切り出した石材を使用したスタジアム、最新の現代美術館の施行現場、そしてフェリーぺが設計を手がけたサッカーグッズショップなどメキシコ近現代建築の50年が一度に体験できたことで上機嫌になった。
午後はメキシコで最も著名な建築家、1980年度プリッツカー賞受賞者ルイス•バラガン設計の修道院を訪れた。外観は全く内部の空間のドラマを感じさせない町並みに馴染んだファサードだ。門をくぐって内部に入るとコートヤードが中央にあり、そこにはバラガン建築独特のピンクの格子と噴水が明るいメキシコの太陽を受けて空間を引き立てていた。修道院の内部も、壁面のテクスチャーと窓から差し込む光が程よく礼拝堂内を反射、拡散し神秘的な空間を創りだしている。中央教壇の背後にある壁にはバラガンのコラボレーターとして多くの家具や彫刻をデザインしたドイツ人アーティストMathias Goeritzによる金箔に塗られた三分割の木製版が輝いていた。
明日は、バラガン邸とレゴレッタ建築、そしてフリーダ•カロとディエゴ•リヴェラの世界を見に行く。

メキシコに来て感じたのは、歴史と文化が芸術により,各時代を明確に表現されていることだ。ソビエト連邦においての革命までが、トロッツキーとカロとリヴェラによって芸術化されているのも不思議だといえよう。

                                                          【GK】

Saturday, April 26, 2008

国際コンペの審査委員としてメキシコシティへ




2008.02.16

2008年6月末に開催されるUIAトリノ世界大会の国際学術委員として1年半務めてきたが、そこで親交を深めたErnesto Alva氏の推薦でメキシコ建国200年•革命100年記念広場の国際コンペ審査員に招聘されることとなった。国際コンペの審査員となるのは今回が初めてだ。仰せつかった大役は光栄でもあり、責任が重く感じられる。

メキシコへの旅は魅力的だ。アメリカに人生の半分以上在住していたにも拘らず、南の国境を隔てた隣国にはカリフォルニアから国境チェックポイントを越えたティファナへ2時間ほど観光(らしくもなかったが)で訪れた時以来である。もう20年以上前のことだ。

カリフォルニアに住んでいると、メキシコ系アメリカ人の人口が50%近く在住しているので、それほどメキシコがエキゾチックな国だと思わないし、また彼らが典型的なメキシコ人だと勘違いしてしまう。メキシコシティに来てメキシコ人たちの違いが分かった。ちなみに僕のようなアメリカ在住の日系人も典型的な日本人ではないのだから。

メキシコシティは標高2240メートルの高原の盆地に位置し、首都圏の人口は2200万人を超え世界第1位の大都市だ。16世紀にスペインにより植民地化され、インカ帝国の遺跡もある歴史的な町であるとともに文化的にリッチな環境なのだ。

国際コンペはメキシコシティ都市計画局の主催により開催され、世界各から300案以上の応募があった。審査委員会は6人によって編成され、審査委員長はメキシコ建築界の長老であるペドロ•ラミレス•ヴァスケス氏が務めた。ヴァスケス氏は今年91歳になるが、丹下健三氏が設計した日本大使館ではローカル•アーキテクトとして丹下さんをサポートしたという。その他、メキシコでは著名な建築家たち、国立大学建築学部長フェリーペ•リアール教授、ベルナルド•ゴメス•ピミエント氏、地方都市メリダの若手建築家ハヴィエール•ムニョース•メネンデス氏、そしてコロンビア人でパナマで建築大学を開校し学長を務めるカルロス•モラレス•ヘンドリー教授と中南米一流の審査委員たちに僕が「国際枠」で加わることとなった。

審査会は1930年代の建築が建ち並ぶ比較的閑静な住宅街にあるホテルから並木道を徒歩10分ほどのところにある建築家協会の旧本部館で行われた。

審査会第一日は敷地の視察から始まった。植民地時代に築かれた旧市街地の中央広場から大通りの軸線上に位置するこのコンペの敷地となる広場には小さな教会が建っていた。周辺は工業地区だ。都市開発局は、この広場を中心として地区の再開発をもくろんでいる。

審査第一日目では各審査員により20案を選出し、それらについて議論が交わされた。ここで書き残しておきたいのは、審査の内容はともあれ、僕はこのコンペに審査で大変苦労したということだ。ご存知、僕の英語は皆さん曰く「native」であるが、じつはそれがここではあまり通用しなかったのだ。なぜならば、今回の審査員たちは皆、スペイン語圏の建築家たちばかり、また顔見知り同士ということもあり、必然的にスペイン語で審査に関する議論が進められたからだ。とくに、初日は初対面ということもあって、僕は「茅の外」に置かれていた。そして通訳が付かない。これではまずいと思い、他の審査員たちの信頼を得るために「営業的」スタンスをとり、休憩時間に必死になって会話を進めた。昼食にも積極的に自己アピールを試みた。その甲斐があって、午後からは他の審査員の助け舟的通訳が入るようになり、なんとか議論に加わることが出来た。

世界各地どこでも英語が通じるという安心感から世界を旅し、会合に出席しているが、これが当たり前ではないこともあるところに参加し、仲間の日本人建築家のみなさんのご苦労を肌で体験させて頂いた。

3日間にわたる審査会は無事終了し、記者発表を終えて、審査会は解散した。最後には審査員の皆さんたちと親交を深めることができ、皆との別れを惜しんだ。

ただし、ペドロ審査委員長だけは審査会の判定は不満として最後は欠席することとなり、慌ただしい裏舞台となってしまったのだが...

さあ、そして帰国を2日後に控えて、明日は町歩きと建築見学だ。


【GK】

Monday, February 25, 2008

ワークショップの本を出版しよう!


2008.01.18

イスタンブールの活動が無事に終わった。ワークショップが終了してから、すでに一年半経過している。このような状態で当時の記録を甦らせるのはそう簡単ではない。まずは、参加者を集めて
編集活動への協力を促す必要があった。しがし、当時のメンバーはチュニジア、マケドニア、インドネシア、日本など世界各地に散在していて、地元の参加者たちも海外で就職していたり、社会人としてなかなか時間がとれず苦労した。このような困難ななか、8名ほど集まって夕食をする機会をもった。2005年にアジア近代建築ネットワーク’(mAAN)の国際会議をこの地で開催し、その前年に上海で開催された産業遺産ワークショップについて発表し、その記録となる本が2007年に出版された。今回はその第2弾となることを参加者に伝え、その重要性を強調した。彼らは、僕がイスタンブールを訪れたことで、多少、エキサイトしてきたようだった。



【GK】

イスタンブール産業遺産の再生に参加




2008.01.12

今日から一週間、トルコのイスタンブールへ出張する。
今回の出張の目的は、2006年5月に当地にて行われた産業遺産再生ワークショップのまとめ
として記録となる本の出版作業を進めるためだ。ワークショップは、僕が過去4年ほど関わってきた20世紀の文化遺産である工場や倉庫などの建築物の保存、活用についての提案をすることを目的とした。そして、その手法の発案などをイスタンブール工科大学の研究者たちの協力のもと、インドネシア、トルコ、日本の建築家たちが、若手建築家とともにチームを編成しいくつかの提案をしたものだ。
地元のコーディネーションを担当したのが同大学の助手を務めるネシェ・ド−サンだ。ワークショップを無事に成功させた後、彼女はフルブライト奨学生としてハーバード大学で一年間研究活動に専念するためイスタンブールを留守にしていた。彼女が帰国し、ようやく出版に向けての活動が再開するという訳だ。 ワークショップは1年半前に実施されたが、その後、実際の工場はどうなったか、そして、果たして売却先の地主はこの産業遺産をどう再生するのかなどが興味深いところだ。

                                                         
【GK】

2008年はUIAトリノ世界大会の年




2008.01.07

年が明けて2008年になった。昨年の暮れは例年と異なり、海外で過ごすことなく久しぶりに東京で正月を迎えることが出来た。僕は、基本的にはナマケモノのようで、何もしない時はだらだらと時間を過ごしてしまう。2008年の年明けはそんな毎日が続いた。
久しぶりに三浦半島の松輪港へ釣りにも出かけた。船釣りで、ライトタックルで鯛を狙うのだか、なかなか本命をつり上げることが出来なかった。元気なイナダを何本か釣って楽しんだ。
2008年といえば、今年はUIA(国際建築家連合)の世界大会がイタリアのトリノで開催される。
3年に一度の建築家のオリンピックと言われる世界大会では世界各地から10000人以上の建築家たちが集まる。ここでは、建築家たちが分野に関わるすべてのことを議論し、また情報交換する重要な場となっている。6月29日から一週間開催されるが、僕はこの大会のプログラムを提案する委員を務めてきたこともあり、とても楽しみだ。そして、このトリノ大会で、次回の開催都市である東京が本格的に紹介され、いよいよ2011年の開催に向けて本腰になって企画が進められる。この東京大会では、広報担当の責任者として重圧のある役目を仰せつかっている。もうすでに2年間大会成功を目指して活動してきた。これからもっと忙しくなるだろう。
2008年の海外研究活動では、韓国、中国、インドなどに遠征することを計画しているが、国内でも千葉県銚子市のまちづくりについての調査も行う予定だ。


                                                          【GK】

Saturday, February 02, 2008

韓国建築家協会設立50周年記念大会にて基調挨拶を行う




2007.11.13

11月に入って緊急出張に出かけた。韓国建築家協会(KIA)の設立50周年大会の基調挨拶と韓国登録建築士協会(KIRA)会長との面談の二つの任務をJIA仙田会長から仰せつかった。KIA大会はソウル市にある旧ソウル駅舎にて開催された。この建物は近代都市遺産として重要な建築物であり、大韓民国史蹟283号として登録されている。設計は東京帝国大学教授塚本靖と朝鮮総督府の建築家ドイツ人ゲオルグ・ラランデによるもので1925年に竣工し、2003年に閉鎖された。
KIA大会式典には国会議員や在韓シンガポール大使などが招待され、僕は2人目の登壇者として仙田会長よりの祝辞を述べた。式典が無事終了し、引き続き夕食会が開催された。韓国建築界の重鎮たちが出席し、プレゼンテーションではKIAに貢献した歴代の会員たちがパワーポイントにより紹介された。駅舎内には様々な作品や50年史の展示などがあり、第2次世界大戦後日本統治から独立し、自らの道を歩んできた隣国韓国の建築家たちの達成した業績に僕も感激した。韓国建築家たちは、これから、さらなる発展と国際的に影響を及ぼすことは間違いない。
翌日は、今度はKIRA本部を訪問した。先月、東京国際フォーラムにて開催されたJIA20周年記念大会に招聘したFIKA(韓国建築団体連合)の会長を務めるHanKIRA会長との一カ月ぶりの再会だ。
仙田会長からのメッセージを伝え、今後の日韓建築界の親善関係やアジアの建築家の将来についてなど、柳(Ryu)春秀副会長を交えて2時間ほど会談した。そこへKIRAのキャンペーン・レディとして活動を始める韓国の有名キャスターさんが登場し、Han会長へ表敬訪問。僕も一緒に記念写真に収まることができた!
懇談後、一行は近所の老舗韓国料理店にて会食を楽しんだ。僕の帰りの飛行機は金浦空港から4時出発だったので、途中で失礼して空港へ向かった。
今回のクイック出張は韓国の二つの建築家団体の会長、また、名誉会員の先輩たちと友好関係を築くことができたことでとても有意義な旅だった思っている。



【GK】