Sunday, September 13, 2009

UIA2008年トリノ大会に参加する




2008.7.6

いよいよUIAトリノ大会「第23回世界建築会議」開会の時が来た。僕は2002年のベルリン大会に出席してから3年おきに開催される建築家のオリンピックに参加してきた。その度に日本を代表するJIA(日本建築家協会)は開催国誘致のために全力を尽くしてきた。1999年に名古屋市が立候補したが、地震の災害を被ったイスタンブールにその座を譲った。2002年には、結果として電子投票システムを導入することとなった迷走総会の歴史的な投票で、一次投票を一位で通過した東京がは結果として、トリノに惜負を喫した。その後、JIA本部の中枢である広報委員長、機関誌「建築家・architects」編集長を務めていた時期に、執行部の企画運営会議のメンバーとして2005年のイスタンブール大会で前川先生始め、諸先輩の念願を叶えるために「3度目の正直」を目指して開催地東京の再立候補を行うことが決まった。そして1年半に及ぶ準備期間、小倉会長のもとで僕は芦原、岩村、横河、古谷各氏、また事務局の安田、宮下各女史ら他、現在東京大会を支える全国のJIAメンバーの有志たちとトルコにおけるプレゼンテーションに臨んだ。
イスタンブールでは、岩村さんと僕と2人で東京に関するプレゼンテーションを行い南アフリカ連邦ダーバン市に僅か17票差で開催都市の権利を譲り受けたのだった。
それから3年経ち、2008年6月30日、いよいよイタリアから開催国としてバトンタッチを受けるトリノ大会が始まった。開会式は旧王家の宮殿で土砂降りの中で開催された。雨がやむのを一時間ほど待ち、屋外での式典が台無しになり、飲み物、食べ物もずぶ濡れになってもイタリア人たちは怯まず、開会式は和やかに行われ、一週間の祭典が開幕した。
2005年世界大会のあとに組織されたUIA2011年東京大会準備委員会では広報部会長となり、大会の意義、内容などを広報し参加者を確保する任務を仰せつかっている。トリノでも国際学術部会のメンバー、また実施設計を予定していながら実現しなかった35歳以下の国際コンペの審査委員長として歴史的なイタリア大会そのものに係ることができたことに非常に光栄に思っている。今回は東京大会のブース展示を、東京都オリンピック招致運動、建築学会、建築士会、事務所協会と共に設置し、世界各国から参加している建築家たちにアピールする機会を頂いた。東京オリンピック招致にはサステナブル東京10年計画を安藤忠雄氏がプロデュースしていることもあり、東京都と建築社会との思惑がマッチしたことが功を奏した。それもあって僕はトリノ大会のメイン会場で二つの講演を行うこととなった。一つは、文化遺産保存再生についての活動を通してサステナブル社会の構築を語った。もう一つは、東京の10年計画とグリーン都市宣言についてのプレゼンテーションだ。日本からのメインの講演は藤森照信氏。隈研吾両氏と僕の合計3名となる自分としてはマイブームとなった。講演会は無事に終わり(http://www.youtube.com/watch?v=6SKbQE1TpqA),日経アーキテクチャーの宮沢記者が「建築界のお祭り男」と掲載記事に報道してくれ、また業界新聞にも東京オリンピック招致に関する講演について(のみ?)が掲載された。実は僕の専門はアジアにおける文化遺産保存再生だということも知ってもらいたかった。
トリノ大会での広報活動として、地元の団体であるCASARTARCとの共催により、広報部会が企画したもう一つのイベント「日本建築家展」も大成功に終わった。市内の文化遺産であるCa vellerizza(旧王室厩舎)の大空間にて開催されたこの展覧会は400名余りの日本人建築家たちの作品を紹介し大会参加者、および一般市民から好評であった。
こうして、トリノ大会は1万人近く参加者を迎え、成功裏に終わった。ただし、ひとつだけ大会最終日に不運が関係者全員を襲った。会長選挙で僕たちJIAが所属する第4地区の副会長であるルイーズ・コックス副会長とジョンカルロ・イウス副会長との一騎打ちになったが、立候補のスピーチと投票の当日早朝にジョンカルロが心臓麻痺で急死するという悲しい出来事が起き、したがって会長選当日は涙の1日となり、また消化不良の納得のいかない会長選となった。また2014年の大会は前回僅票の差で惜負したダーバンが、これまたたったの2票差でシンガポールを抑えて開催の権利を手にした。
こうして、2002年から務めてきた第4地区次席理事の任務も無事に終え、トリノ大会への参加を全うした。次はいよいよ東京大会だ。

写真は講演会風景、パオロ・ソレリ氏との記念写真、ARCASIA展覧会風景


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