Sunday, April 27, 2008

バラガンとレゴレッタの建築思想は対照的






2008.02.18

今朝はErnesto Alva氏の案内でバラガン自邸へ特別拝観することになった。ここでもパナマ建築大学の学生•教員一行が来ていて,一緒に内部をじっくりと見学することが出来た。
バラガン自邸も外観は周囲の建物と全く変わりがないコンテキストにジャストフィットした建物だ。バラガンは何棟かの建物を段階的に買収し、増築を重ねていったそうだ。裏口のような比較的狭い玄関から入るとエントランスホールにつながる。ここは階段室で階段は黒、右壁面はバラガンピンク、階段を上り切った対面の壁にはGoeritzの金箔に塗られたキャンバスが掲げられている。
学生たちと高い天井となっているリビングルーム、ダイニングルームを回る。撮影禁止でも必死でシャッターを切りまくる。庭に面した大きな窓と本棚にあるバラガンの図書が印象的だった。ダイニングルームから寝室にあがるあの有名なキャンテレバーの木製階段には感激した!
2階はプライバシーが保たれているとは言うものの、そもそもこの自邸そのものが隠れ家となっている。庭に出る途中に噴水があるコートヤードがあった。雰囲気はスリランカのジェフリー•バワ建築に似ていた。ゲイ(だったという噂のバラガン)の繊細な感性からくる独特のデザインなのか?
2時間以上バラガン自邸で見学し、すばらしいエネルギーをもらった気持ちになった。
Alva氏に感謝!!!
見学が終わって一旦ホテルの戻り、今度はバラガンのコラボレーターであったメキシコを代表する現代建築家で1980年プリッズカー賞受賞者であるリカルド•レゴレッタのカミノレアールホテルを見学しに出掛ける
このホテルはレゴレッタを世界的建築家にした名作だ。建築的にはド派手である。バラガンカラーをふんだんに使い空間的には噴水や水面を利用し、ドラマッチクな建築を実現している。内向的なバラガンに対して自己表現を駆使したというような作品だ。いかにもメキシコ•ラテン系精神だ。
一通り回ったあと、郊外のリヴェラ•カロ夫妻の世界を体験しに向かった。
トロッツキー博物館、カロ邸、リヴェラスタジオなど1930年代のメキシコモダニズムと左翼運動の雰囲気を体感した。

ホテルの戻り、おしゃれなニューベルキュジーヌの夕食でメキシコ滞在を締めくくった。

                                                              【GK】

世界遺産の大学キャンパスとバラガン修道院







2008.02.17

今日はコンぺ審査委員のフェリーペ•リアール教授の案内でメキシコ国立大学のキャンパスを午前中に案内してもらうことになった。ちょうどアメリカのテキサス大学から学生と教員が交換留学で滞在中の彼らとキャンパス巡りをするという。引率の教員はなんと僕のコロンビア大学の教え子のミゲール•リヴェラ君のパートナーだということが分かり、びっくりした。早速、国際電話でテキサスに電話を掛けてもらって12、3年ぶりにミゲールと話をした。彼等はテキサスでアトリエ事務所を構え、がんばって良い作品を発表しているらしい。懐かしかった。
フェリーペと合流したあと、学生たちとレンタル自転車でキャンパスを周り建築を見学した。広大なキャンパスは環境共生型の開発をしており、また、世界遺産にも登録されているモダニズムの名作である。
壁画で有名なキャンパス棟、地元の溶岩から切り出した石材を使用したスタジアム、最新の現代美術館の施行現場、そしてフェリーぺが設計を手がけたサッカーグッズショップなどメキシコ近現代建築の50年が一度に体験できたことで上機嫌になった。
午後はメキシコで最も著名な建築家、1980年度プリッツカー賞受賞者ルイス•バラガン設計の修道院を訪れた。外観は全く内部の空間のドラマを感じさせない町並みに馴染んだファサードだ。門をくぐって内部に入るとコートヤードが中央にあり、そこにはバラガン建築独特のピンクの格子と噴水が明るいメキシコの太陽を受けて空間を引き立てていた。修道院の内部も、壁面のテクスチャーと窓から差し込む光が程よく礼拝堂内を反射、拡散し神秘的な空間を創りだしている。中央教壇の背後にある壁にはバラガンのコラボレーターとして多くの家具や彫刻をデザインしたドイツ人アーティストMathias Goeritzによる金箔に塗られた三分割の木製版が輝いていた。
明日は、バラガン邸とレゴレッタ建築、そしてフリーダ•カロとディエゴ•リヴェラの世界を見に行く。

メキシコに来て感じたのは、歴史と文化が芸術により,各時代を明確に表現されていることだ。ソビエト連邦においての革命までが、トロッツキーとカロとリヴェラによって芸術化されているのも不思議だといえよう。

                                                          【GK】

Saturday, April 26, 2008

国際コンペの審査委員としてメキシコシティへ




2008.02.16

2008年6月末に開催されるUIAトリノ世界大会の国際学術委員として1年半務めてきたが、そこで親交を深めたErnesto Alva氏の推薦でメキシコ建国200年•革命100年記念広場の国際コンペ審査員に招聘されることとなった。国際コンペの審査員となるのは今回が初めてだ。仰せつかった大役は光栄でもあり、責任が重く感じられる。

メキシコへの旅は魅力的だ。アメリカに人生の半分以上在住していたにも拘らず、南の国境を隔てた隣国にはカリフォルニアから国境チェックポイントを越えたティファナへ2時間ほど観光(らしくもなかったが)で訪れた時以来である。もう20年以上前のことだ。

カリフォルニアに住んでいると、メキシコ系アメリカ人の人口が50%近く在住しているので、それほどメキシコがエキゾチックな国だと思わないし、また彼らが典型的なメキシコ人だと勘違いしてしまう。メキシコシティに来てメキシコ人たちの違いが分かった。ちなみに僕のようなアメリカ在住の日系人も典型的な日本人ではないのだから。

メキシコシティは標高2240メートルの高原の盆地に位置し、首都圏の人口は2200万人を超え世界第1位の大都市だ。16世紀にスペインにより植民地化され、インカ帝国の遺跡もある歴史的な町であるとともに文化的にリッチな環境なのだ。

国際コンペはメキシコシティ都市計画局の主催により開催され、世界各から300案以上の応募があった。審査委員会は6人によって編成され、審査委員長はメキシコ建築界の長老であるペドロ•ラミレス•ヴァスケス氏が務めた。ヴァスケス氏は今年91歳になるが、丹下健三氏が設計した日本大使館ではローカル•アーキテクトとして丹下さんをサポートしたという。その他、メキシコでは著名な建築家たち、国立大学建築学部長フェリーペ•リアール教授、ベルナルド•ゴメス•ピミエント氏、地方都市メリダの若手建築家ハヴィエール•ムニョース•メネンデス氏、そしてコロンビア人でパナマで建築大学を開校し学長を務めるカルロス•モラレス•ヘンドリー教授と中南米一流の審査委員たちに僕が「国際枠」で加わることとなった。

審査会は1930年代の建築が建ち並ぶ比較的閑静な住宅街にあるホテルから並木道を徒歩10分ほどのところにある建築家協会の旧本部館で行われた。

審査会第一日は敷地の視察から始まった。植民地時代に築かれた旧市街地の中央広場から大通りの軸線上に位置するこのコンペの敷地となる広場には小さな教会が建っていた。周辺は工業地区だ。都市開発局は、この広場を中心として地区の再開発をもくろんでいる。

審査第一日目では各審査員により20案を選出し、それらについて議論が交わされた。ここで書き残しておきたいのは、審査の内容はともあれ、僕はこのコンペに審査で大変苦労したということだ。ご存知、僕の英語は皆さん曰く「native」であるが、じつはそれがここではあまり通用しなかったのだ。なぜならば、今回の審査員たちは皆、スペイン語圏の建築家たちばかり、また顔見知り同士ということもあり、必然的にスペイン語で審査に関する議論が進められたからだ。とくに、初日は初対面ということもあって、僕は「茅の外」に置かれていた。そして通訳が付かない。これではまずいと思い、他の審査員たちの信頼を得るために「営業的」スタンスをとり、休憩時間に必死になって会話を進めた。昼食にも積極的に自己アピールを試みた。その甲斐があって、午後からは他の審査員の助け舟的通訳が入るようになり、なんとか議論に加わることが出来た。

世界各地どこでも英語が通じるという安心感から世界を旅し、会合に出席しているが、これが当たり前ではないこともあるところに参加し、仲間の日本人建築家のみなさんのご苦労を肌で体験させて頂いた。

3日間にわたる審査会は無事終了し、記者発表を終えて、審査会は解散した。最後には審査員の皆さんたちと親交を深めることができ、皆との別れを惜しんだ。

ただし、ペドロ審査委員長だけは審査会の判定は不満として最後は欠席することとなり、慌ただしい裏舞台となってしまったのだが...

さあ、そして帰国を2日後に控えて、明日は町歩きと建築見学だ。


【GK】