Saturday, April 26, 2008

国際コンペの審査委員としてメキシコシティへ




2008.02.16

2008年6月末に開催されるUIAトリノ世界大会の国際学術委員として1年半務めてきたが、そこで親交を深めたErnesto Alva氏の推薦でメキシコ建国200年•革命100年記念広場の国際コンペ審査員に招聘されることとなった。国際コンペの審査員となるのは今回が初めてだ。仰せつかった大役は光栄でもあり、責任が重く感じられる。

メキシコへの旅は魅力的だ。アメリカに人生の半分以上在住していたにも拘らず、南の国境を隔てた隣国にはカリフォルニアから国境チェックポイントを越えたティファナへ2時間ほど観光(らしくもなかったが)で訪れた時以来である。もう20年以上前のことだ。

カリフォルニアに住んでいると、メキシコ系アメリカ人の人口が50%近く在住しているので、それほどメキシコがエキゾチックな国だと思わないし、また彼らが典型的なメキシコ人だと勘違いしてしまう。メキシコシティに来てメキシコ人たちの違いが分かった。ちなみに僕のようなアメリカ在住の日系人も典型的な日本人ではないのだから。

メキシコシティは標高2240メートルの高原の盆地に位置し、首都圏の人口は2200万人を超え世界第1位の大都市だ。16世紀にスペインにより植民地化され、インカ帝国の遺跡もある歴史的な町であるとともに文化的にリッチな環境なのだ。

国際コンペはメキシコシティ都市計画局の主催により開催され、世界各から300案以上の応募があった。審査委員会は6人によって編成され、審査委員長はメキシコ建築界の長老であるペドロ•ラミレス•ヴァスケス氏が務めた。ヴァスケス氏は今年91歳になるが、丹下健三氏が設計した日本大使館ではローカル•アーキテクトとして丹下さんをサポートしたという。その他、メキシコでは著名な建築家たち、国立大学建築学部長フェリーペ•リアール教授、ベルナルド•ゴメス•ピミエント氏、地方都市メリダの若手建築家ハヴィエール•ムニョース•メネンデス氏、そしてコロンビア人でパナマで建築大学を開校し学長を務めるカルロス•モラレス•ヘンドリー教授と中南米一流の審査委員たちに僕が「国際枠」で加わることとなった。

審査会は1930年代の建築が建ち並ぶ比較的閑静な住宅街にあるホテルから並木道を徒歩10分ほどのところにある建築家協会の旧本部館で行われた。

審査会第一日は敷地の視察から始まった。植民地時代に築かれた旧市街地の中央広場から大通りの軸線上に位置するこのコンペの敷地となる広場には小さな教会が建っていた。周辺は工業地区だ。都市開発局は、この広場を中心として地区の再開発をもくろんでいる。

審査第一日目では各審査員により20案を選出し、それらについて議論が交わされた。ここで書き残しておきたいのは、審査の内容はともあれ、僕はこのコンペに審査で大変苦労したということだ。ご存知、僕の英語は皆さん曰く「native」であるが、じつはそれがここではあまり通用しなかったのだ。なぜならば、今回の審査員たちは皆、スペイン語圏の建築家たちばかり、また顔見知り同士ということもあり、必然的にスペイン語で審査に関する議論が進められたからだ。とくに、初日は初対面ということもあって、僕は「茅の外」に置かれていた。そして通訳が付かない。これではまずいと思い、他の審査員たちの信頼を得るために「営業的」スタンスをとり、休憩時間に必死になって会話を進めた。昼食にも積極的に自己アピールを試みた。その甲斐があって、午後からは他の審査員の助け舟的通訳が入るようになり、なんとか議論に加わることが出来た。

世界各地どこでも英語が通じるという安心感から世界を旅し、会合に出席しているが、これが当たり前ではないこともあるところに参加し、仲間の日本人建築家のみなさんのご苦労を肌で体験させて頂いた。

3日間にわたる審査会は無事終了し、記者発表を終えて、審査会は解散した。最後には審査員の皆さんたちと親交を深めることができ、皆との別れを惜しんだ。

ただし、ペドロ審査委員長だけは審査会の判定は不満として最後は欠席することとなり、慌ただしい裏舞台となってしまったのだが...

さあ、そして帰国を2日後に控えて、明日は町歩きと建築見学だ。


【GK】

No comments: